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CASIOの社名の由来が意外と知られていない。 [社長 企業]

「G―SHOCK」開発推進の樫尾和雄氏が死去していた事がわかった。

もはや世界的ブランドとなったCASIO。

CASIOのブランド名が創業者の樫尾さんの名前が由来だとは意外と知られていない。

創業者は樫尾忠雄(読み方:かしおただお)さんだがカシオ計算機株式会社の創業メンバーは「樫尾四兄弟」と言われており、
樫尾四兄弟は、主に長兄・忠雄が財務担当、次兄・俊雄が開発担当、三男・和雄を営業担当とし、四男・幸雄を生産担当として、カシオを運営していったという。

その三男である樫尾和雄さんが亡くなった。

樫尾和雄さんはカシオ計算機の会長で、創業者の「樫尾4兄弟」の三男、
2018.6.18日、誤嚥性(ごえんせい)肺炎のため死去した。89歳だった


東京都出身。1949年に日大高等師範部英語科を卒業後、長兄の忠雄氏が創業した樫尾製作所(カシオ計算機の前身)に入社。






CASIOの創業者は樫尾忠雄さん

読み方:かしおただお


樫尾忠雄は、カシオ計算機株式会社の創業メンバーのひとりである。

1917年(大正6年)、高知県生まれ。国内電子機器業界ではあまりに有名な「樫尾四兄弟」の長兄として、創業当初からカシオを牽引してきた人物として知られている。

樫尾忠雄5歳の頃、樫尾家は、東京で働いていた叔父に誘われて一家で上京した。

忠雄は高等小学校を卒業したのち、家計を助けるために見習いの旋盤工として働き始める。そこで腕の良さが認められ、工場主の勧めもあって、働くかたわら早稲田工手学校(現在、早稲田大学)に通学するようになる。早稲田で修めた技術と知識をもとに、軍需工場などの職場を幾つか経験し、鍋、釜、自転車の発電ランプなどの作製を営んでいた。そのうちに、卓越した技能と創造性が評判となって、周囲にすっかり知れ渡るようになる。



やがて部品加工の下請けを多く頼まれるようになった樫尾忠雄は、1946年、東京都三鷹市に「樫尾製作所」を創業、精密機械の加工業として独立自営を始める。


当初は精密機械の加工を営み、後に弟の俊雄の発案で電気式計算機の開発に取り組み始める。1957年6月に完成して商品化された小型電子計算機「カシオ14-A型」は、リレー素子を採用した、純粋に電子的な計算処理をする世界初の量産型計算機だった。社名は14-A型計算機の発売に際して現在のカシオ計算機と改名され、株式会社に改組して、全国販売を展開した。

樫尾四兄弟は、主に長兄・忠雄が財務担当、次兄・俊雄が開発担当、三男・和雄を営業担当とし、四男・幸雄を生産担当として、カシオを運営していった。


電子計算機の後も、電卓、デジタルウオッチ、電子楽器、ポケットテレビ、液晶モニター付きデジタルカメラなど、画期的な製品を素早く、なおかつ低価格で発表し、消費者のニーズに応え、瞬く間に急成長をとげた。樫尾忠雄は1988年に社長から相設役へと退いた。そして1993年、逝去した。



亡くなった樫尾和雄さんは個人向け電卓を主力商品に育てたほか、90年代に社会現象にもなった腕時計「G―SHOCK(ジーショック)」の普及を推進。88年に社長に就任し、2015年に会長に就いた。1994年には藍綬褒章を受章した。


代表取締役会長 樫尾 和雄(かしお かずお、1929年1月9日 -2018年6月19日 )

代表取締役社長 樫尾 和宏(かしお かずひろ



樫尾 忠雄(かしお ただお、1917年(大正6年)11月26日 - 1993年(平成5年)3月4日[1])は、日本の実業家。カシオ計算機の創業者である。

樫尾俊雄 
1925年1月1日生まれ 2012年5月15日 87歳で死去
忠雄が社長から相談役へと退くのを受けて1988年に代表取締役会長に就任した。


代表取締役会長 樫尾 和雄(かしお かずお、1929年1月9日 -2018年6月19日 )



CASIOの現社長は

樫尾 和宏(かしお かずひろ、1966年(昭和41年)1月22日 -)は、日本の実業家。カシオ計算機株式会社代表取締役社長

樫尾和雄の息子である。




CASIOの社長は数多く名言を残している。


●●●●名言●●●●
よい種をまけば必ずよい実がなる。最善を尽くせば必ず報いられる。



これは長男である樫尾忠雄氏の言葉、創業期に社長を務めた人物で、主に財務の柱としてカシオを支えた。

成果を得るためには、まず最初の一歩を踏み出すことが必要。そして、価値の高い商品とは何か考え抜き、行動と改善を繰り返し続ければ、成功はできる。


2:カシオ(開発)樫尾俊雄氏の名言

カシオ(開発)樫尾俊雄氏の名言


「必要は発明の母」とよく言われます。それに対して私は、「発明は必要の母」を持論としています。世の中の多くの人が必要性を認識するようになった段階で開発を始めても、もう遅いんです。我々が発明した製品を見た人が「ああ、これは自分にとって必要な製品だ」と感じて、受け入れてくれる。それが理想です。

次男である樫尾俊雄氏は、名誉会長を務めた人物で、主に開発の柱としてカシオを支えた。世界初の小型純電気式計算機を初め、様々な商品を発明した。

成功するためには、顧客や社会のニーズを敏感にいち早く捉え、新しい価値を生み出すことが求められる。今はまだ無い「0から1」を創造することが鍵。



3:カシオ(営業)樫尾和雄氏の名言
カシオ(営業)樫尾和雄氏の名言
つくづく感じるのは、「過去の遺産」で食いつないでいる会社が多いということ。カシオも、兄であり会長でもあった樫尾俊雄が発明した時計や楽器、計算機など、20世紀の遺産で現在も食っている。これではダメだ。これからは21世紀の新しい資産を作らなければならない。





企業は、走り続けなければならない。挑戦を止めた企業は、いずれ衰退する。高い競争力と成長率を維持するため、イノベーションを起こし続ける必要がある。

4:カシオ(生産)樫尾幸雄氏の名言
カシオ(生産)樫尾幸雄氏の名言
いつも鮮度を求め、これでいいのかと問い続ける。そして、もっといいものがあれば、古いものをぱっと捨てて、切り替える。これが変化の速い時代に勝ち残るカギです。

四男である樫尾幸雄氏は、副社長を務めた人物で、主に生産の柱としてカシオを支えた。技術は生鮮食品と同じで、鮮度が重要であると伝えている。

そのためには、陳腐化したモノを捨てる覚悟と未来を捉える視点が重要。開発を行っている間に古くなってしまうのでは、顧客から選ばれない。


今後もCASIOから目が離せない。
むしろ創業メンバーが全員いなくなってからのCASIOがどうなるのか?

成長するか衰退するか?
現社長の樫尾和宏さんにかかっている。








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CASIOの社名の由来が意外と知られていない。 [社長 企業]

「G―SHOCK」開発推進の樫尾和雄氏が死去していた事がわかった。

もはや世界的ブランドとなったCASIO。

CASIOのブランド名が創業者の樫尾さんの名前が由来だとは意外と知られていない。

創業者は樫尾忠雄(読み方:かしおただお)さんだがカシオ計算機株式会社の創業メンバーは「樫尾四兄弟」と言われており、
樫尾四兄弟は、主に長兄・忠雄が財務担当、次兄・俊雄が開発担当、三男・和雄を営業担当とし、四男・幸雄を生産担当として、カシオを運営していったという。

その三男である樫尾和雄さんが亡くなった。

樫尾和雄さんはカシオ計算機の会長で、創業者の「樫尾4兄弟」の三男、
2018.6.18日、誤嚥性(ごえんせい)肺炎のため死去した。89歳だった


東京都出身。1949年に日大高等師範部英語科を卒業後、長兄の忠雄氏が創業した樫尾製作所(カシオ計算機の前身)に入社。






CASIOの創業者は樫尾忠雄さん

読み方:かしおただお


樫尾忠雄は、カシオ計算機株式会社の創業メンバーのひとりである。

1917年(大正6年)、高知県生まれ。国内電子機器業界ではあまりに有名な「樫尾四兄弟」の長兄として、創業当初からカシオを牽引してきた人物として知られている。

樫尾忠雄5歳の頃、樫尾家は、東京で働いていた叔父に誘われて一家で上京した。

忠雄は高等小学校を卒業したのち、家計を助けるために見習いの旋盤工として働き始める。そこで腕の良さが認められ、工場主の勧めもあって、働くかたわら早稲田工手学校(現在、早稲田大学)に通学するようになる。早稲田で修めた技術と知識をもとに、軍需工場などの職場を幾つか経験し、鍋、釜、自転車の発電ランプなどの作製を営んでいた。そのうちに、卓越した技能と創造性が評判となって、周囲にすっかり知れ渡るようになる。



やがて部品加工の下請けを多く頼まれるようになった樫尾忠雄は、1946年、東京都三鷹市に「樫尾製作所」を創業、精密機械の加工業として独立自営を始める。


当初は精密機械の加工を営み、後に弟の俊雄の発案で電気式計算機の開発に取り組み始める。1957年6月に完成して商品化された小型電子計算機「カシオ14-A型」は、リレー素子を採用した、純粋に電子的な計算処理をする世界初の量産型計算機だった。社名は14-A型計算機の発売に際して現在のカシオ計算機と改名され、株式会社に改組して、全国販売を展開した。

樫尾四兄弟は、主に長兄・忠雄が財務担当、次兄・俊雄が開発担当、三男・和雄を営業担当とし、四男・幸雄を生産担当として、カシオを運営していった。


電子計算機の後も、電卓、デジタルウオッチ、電子楽器、ポケットテレビ、液晶モニター付きデジタルカメラなど、画期的な製品を素早く、なおかつ低価格で発表し、消費者のニーズに応え、瞬く間に急成長をとげた。樫尾忠雄は1988年に社長から相設役へと退いた。そして1993年、逝去した。



亡くなった樫尾和雄さんは個人向け電卓を主力商品に育てたほか、90年代に社会現象にもなった腕時計「G―SHOCK(ジーショック)」の普及を推進。88年に社長に就任し、2015年に会長に就いた。1994年には藍綬褒章を受章した。


代表取締役会長 樫尾 和雄(かしお かずお、1929年1月9日 -2018年6月19日 )

代表取締役社長 樫尾 和宏(かしお かずひろ



樫尾 忠雄(かしお ただお、1917年(大正6年)11月26日 - 1993年(平成5年)3月4日[1])は、日本の実業家。カシオ計算機の創業者である。

樫尾俊雄 
1925年1月1日生まれ 2012年5月15日 87歳で死去
忠雄が社長から相談役へと退くのを受けて1988年に代表取締役会長に就任した。


代表取締役会長 樫尾 和雄(かしお かずお、1929年1月9日 -2018年6月19日 )



CASIOの現社長は

樫尾 和宏(かしお かずひろ、1966年(昭和41年)1月22日 -)は、日本の実業家。カシオ計算機株式会社代表取締役社長

樫尾和雄の息子である。




CASIOの社長は数多く名言を残している。


●●●●名言●●●●
よい種をまけば必ずよい実がなる。最善を尽くせば必ず報いられる。



これは長男である樫尾忠雄氏の言葉、創業期に社長を務めた人物で、主に財務の柱としてカシオを支えた。

成果を得るためには、まず最初の一歩を踏み出すことが必要。そして、価値の高い商品とは何か考え抜き、行動と改善を繰り返し続ければ、成功はできる。


2:カシオ(開発)樫尾俊雄氏の名言

カシオ(開発)樫尾俊雄氏の名言


「必要は発明の母」とよく言われます。それに対して私は、「発明は必要の母」を持論としています。世の中の多くの人が必要性を認識するようになった段階で開発を始めても、もう遅いんです。我々が発明した製品を見た人が「ああ、これは自分にとって必要な製品だ」と感じて、受け入れてくれる。それが理想です。

次男である樫尾俊雄氏は、名誉会長を務めた人物で、主に開発の柱としてカシオを支えた。世界初の小型純電気式計算機を初め、様々な商品を発明した。

成功するためには、顧客や社会のニーズを敏感にいち早く捉え、新しい価値を生み出すことが求められる。今はまだ無い「0から1」を創造することが鍵。



3:カシオ(営業)樫尾和雄氏の名言
カシオ(営業)樫尾和雄氏の名言
つくづく感じるのは、「過去の遺産」で食いつないでいる会社が多いということ。カシオも、兄であり会長でもあった樫尾俊雄が発明した時計や楽器、計算機など、20世紀の遺産で現在も食っている。これではダメだ。これからは21世紀の新しい資産を作らなければならない。





企業は、走り続けなければならない。挑戦を止めた企業は、いずれ衰退する。高い競争力と成長率を維持するため、イノベーションを起こし続ける必要がある。

4:カシオ(生産)樫尾幸雄氏の名言
カシオ(生産)樫尾幸雄氏の名言
いつも鮮度を求め、これでいいのかと問い続ける。そして、もっといいものがあれば、古いものをぱっと捨てて、切り替える。これが変化の速い時代に勝ち残るカギです。

四男である樫尾幸雄氏は、副社長を務めた人物で、主に生産の柱としてカシオを支えた。技術は生鮮食品と同じで、鮮度が重要であると伝えている。

そのためには、陳腐化したモノを捨てる覚悟と未来を捉える視点が重要。開発を行っている間に古くなってしまうのでは、顧客から選ばれない。


今後もCASIOから目が離せない。
むしろ創業メンバーが全員いなくなってからのCASIOがどうなるのか?

成長するか衰退するか?
現社長の樫尾和宏さんにかかっている。








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