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西城秀樹さん死去、、親友の野口五郎が過去に送った西城秀樹への手紙が泣ける [芸能人]

西城秀樹さん死去、、63歳でこの世を去る。
ショックすぎる。 
西城秀樹さんは最期まで「生涯歌手」だった。



西城秀樹さんは昭和の歌謡史を情熱的な歌唱と激しいアクションで彩った。

今もなお若い世代にも愛されている歌が多く、スターといえば西城秀樹だった。


歌手西城秀樹(さいじょう・ひでき)さん(本名・木本竜雄=きもと・たつお)が16日に死去したことがわかった。63歳。広島県出身。



 2度の脳梗塞に倒れ、懸命なリハビリを続けながら、最期まで「生涯歌手」にこだわった人生だった。


大スター西城秀樹の死で、数多くの悲しみの声があふれた。

西城秀樹の親友はどんな思いなのか?もちろん悲しみで言葉にできないと思う。

西城秀樹の親友といえば野口五郎さんだ。
過去に西城秀樹へ宛てた野口五郎からの手紙が感動する。

今読み返すと一般人でも悲しみに溢れてくる。。

2015年の10月に放送されたTOKYO FMの
「ゆうちょ LETTER for LINKS」
での手紙だ。


人生を変えた、大切なあの人との「出会いと絆」、そして今だからこそ書きたい「手紙」





(一部省略)

野口五郎



僕、野口五郎は、西城秀樹の還暦パーティで、こう言った。
「ヒデキ、おまえを越えるやつは誰もいないよ!」
ヒデキに憧れてアーティストになったひとはたくさんいる。
でもやっぱり誰も彼を越えられない。
圧倒的な歌唱力、表現力。
何より僕には自負がある。
「おまえの凄さ、僕にはわかるよ」。
ずっと一緒に戦ってきたから。
40年以上走り続けてきたから。





もしも、タイムマシンがあって、ヒデキと過ごしたあの頃に、もう一度戻るとしたら、いったいいつがいいか……。
そう、あれは地方公演のときだった。

ホテルの別々の部屋で休む。
鍵はマネージャーに渡し、外出など許されなかった。
ファンのひとたちでパニックになることがわかっていたから。
新幹線、飛行機、ホテル。
特別扱いされていたのは、ただ単に、ファンがあふれ失神者が続出し、まわりに迷惑がかかるから、それだけの理由だった。




深夜、チャルメラの音が聴こえた。
夜鳴きそば。
無性にラーメンが食べたくなった。
「おい、ヒデキ、ラーメン、食べにいかないか?」
彼の部屋に電話した。
2人でホテルの窓から出る。
とんでもない高さ。一歩間違えば転落死。
でもそんな恐怖は何でもなかった。
深い、何処までも深い孤独に陥る恐怖に比べれば、気にならなかった。
屋台のラーメン屋さん。

並んで腰掛けた。
「うまいな、ヒデキ」
「うまいね、ゴロー」
会話はそれだけだった。
そう、過去に戻ってもう一度体験してみたい時間は、あの屋台でのひとときだ。
2人で並んでラーメンをすすったあのとき、少なくとも僕は救われた。
ひとりでは、なかった。


~~~~~~~~~


新御三家(野口五郎、西城秀樹、郷ひろみ
)と呼ばれた僕たち。
3人でする笑い話がある。
ヒデキとひろみが売れてきたある日、ヒデキから
「ゴロウ、相談があるんだけど」
と呼ばれた。
「ひろみは、オレより数ヵ月後輩だから、最初は、ヒデキさん荷物持ちますって感じだったんだけど、しばらく経つと、おいヒデキって呼び捨てなんだよ、それがオレ、許せないんだ!」

3人で会うと、今でもこの話で大笑いする。
僕たちにしかわからない、熱狂があった。
僕たちにしか理解できない、孤独があった。








僕たちには、ただ、激動の時代を生き抜いてきた戦友としての熱い思いしかなかった。
あの時代を共有できたものにしかわからない孤独があった。
高ぶる気持ちやさみしさがあった。
2015年4月13日。
病気の苦難を乗り越え、戦っているヒデキの還暦のパーティに呼ばれた。
僕はバースデーケーキを運び、彼と抱き合った。
そのときの抱擁と、あのレコード大賞での抱擁は、なんら変わることがない。
ヒデキ、わかってるだろ?
何も変わらないよ、オレたちは、何も変わらない。
ただ一緒に走ってきた道だけが、そこにある。




~西城秀樹さんへ~
思い返せば、生まれて初めて君の名前に「さん」をつけました。
言った僕が驚いてます。
1年先輩の僕がっていうのも、もう、今となっては、何の意味もないことになりまして、今考えてみると、同じ世代を一緒に駆け抜けて来たなっていう、そんな気持ちです。
最近になって、ああ、秀樹っていい曲いっぱい歌ってたなあって思うし、かっこ良かったなあ、とも思うし……。
なんか、僕達って、世間でライバルって言われた時期があって、でもお互いにはみんな、そんなライバルだなんて思ってなくて、時代を駆け抜けてきたような気がします。
でも、今、考えてみると、意識してたんだろうね、どっかでね、お互いね。
でもここまで頑張ってきたんだから、どこまで行けるかどうか、2人で一緒に頑張って、この歌の世界、アーティストの世界を全うしましょうよ。
最後の最後まで……何が最後なのかわかんないけど、切磋琢磨しましょ。
僕が入院した時に、君が見舞いに来てくれたね。
あの時、ドアを開けた瞬間に僕に、君はハワイ帰りだったのかな、真っ黒に日焼けした肌にTシャツで、いかにも健康的な顔して僕に「ゴロー、元気?」
僕は元気じゃなかったから入院してたんだよ。
ま、いつまでも仲良くしましょ。以上、野口五郎でした。




~~~~~~~~~~

屋台のラーメンを二人ですすったという話し。本当に感動する。
ツライ


親友の野口五郎は今、誰よりも辛いだろう。



西城秀樹さんは「絶唱型」と呼ばれた歌唱スタイルと、ダイナミックなステージで、多くの女性たちをとりこにしてきた。


バラエティー番組でもお茶目な姿をみせたり、CMでも「秀樹感激!」などの名言を残した。

 72年に「恋する季節」で歌手デビューした時のキャッチフレーズは「ワイルドな17歳」。目鼻立ちが整った顔立ちと、ハスキーな声でシャウトする歌唱はまさに“ワイルドそのもの”。


翌年には「ちぎれた愛」が初のオリコン1位。トップアイドルの仲間入りを果たし、郷ひろみ(62)野口五郎(62)とともに「新御三家」と呼ばれた。


79年発売の代表曲「YOUNG MAN」は、人気音楽番組「ザ・ベストテン」で唯一、最高点の9999点をたたき出し、歌謡界の頂点に立った。

 俳優としても活躍した。TBS系ドラマ「寺内貫太郎一家」(74年)では、父親役の小林亜星(85)と毎回のように“お約束”の激しい親子げんかが話題を呼んだ。小林に投げ飛ばされた際に腕を骨折してしまったエピソードは有名だ。

 ハウス食品「バーモントカレー」のCMでは「ヒデキ、感激!」などのキャッチコピーがお茶の間の人気に。「ヒデキ」の愛称は芸能界の枠を超え、子供からお年寄りまで幅広い世代に愛された。

 15年前からは病気とも戦ってきた。歌手として脂の乗っていた48歳の時に最初の脳梗塞を発症。8年後の11年に再発した。それからは、右半身のまひと、会話をする際の言葉に障害が残った。09年の日刊スポーツのイタビューには「終止符を打つまでは人生を楽しみたい。自分だけでなく、周囲のみんなを楽しませたい。『一生懸命』という言葉はあまり好きじゃなかったけど、一生懸命に、今できることをやっていきたい。病気のおかげで多くのことに気付くことができたから。人に希望を与えていく歌い手になりたい」と話した。

 筋力強化トレーニングやリハビリに務めながら、60歳をすぎても歌への意欲は決して衰えなかった。15年に発売した還暦記念アルバム「心響-KODOU-」では、ライブで歌唱してきた「蜃気楼」を3120日ぶりの新曲として収録。デビュー45周年の節目となった昨年まで、精力的にコンサートのステージに立ち続けた。




 ヒット曲は「ヤングマン」「激しい恋」「傷だらけのローラ」「ギャランドゥ」など枚挙にいとまがない。紅白歌合戦にも18回出場した。記録と記憶を残した国民的スターが、短すぎる63年の人生に幕を下ろした。




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西城秀樹さん死去、、親友の野口五郎が過去に送った西城秀樹への手紙が泣ける [芸能人]

西城秀樹さん死去、、63歳でこの世を去る。
ショックすぎる。 
西城秀樹さんは最期まで「生涯歌手」だった。



西城秀樹さんは昭和の歌謡史を情熱的な歌唱と激しいアクションで彩った。

今もなお若い世代にも愛されている歌が多く、スターといえば西城秀樹だった。


歌手西城秀樹(さいじょう・ひでき)さん(本名・木本竜雄=きもと・たつお)が16日に死去したことがわかった。63歳。広島県出身。



 2度の脳梗塞に倒れ、懸命なリハビリを続けながら、最期まで「生涯歌手」にこだわった人生だった。


大スター西城秀樹の死で、数多くの悲しみの声があふれた。

西城秀樹の親友はどんな思いなのか?もちろん悲しみで言葉にできないと思う。

西城秀樹の親友といえば野口五郎さんだ。
過去に西城秀樹へ宛てた野口五郎からの手紙が感動する。

今読み返すと一般人でも悲しみに溢れてくる。。

2015年の10月に放送されたTOKYO FMの
「ゆうちょ LETTER for LINKS」
での手紙だ。


人生を変えた、大切なあの人との「出会いと絆」、そして今だからこそ書きたい「手紙」





(一部省略)

野口五郎



僕、野口五郎は、西城秀樹の還暦パーティで、こう言った。
「ヒデキ、おまえを越えるやつは誰もいないよ!」
ヒデキに憧れてアーティストになったひとはたくさんいる。
でもやっぱり誰も彼を越えられない。
圧倒的な歌唱力、表現力。
何より僕には自負がある。
「おまえの凄さ、僕にはわかるよ」。
ずっと一緒に戦ってきたから。
40年以上走り続けてきたから。





もしも、タイムマシンがあって、ヒデキと過ごしたあの頃に、もう一度戻るとしたら、いったいいつがいいか……。
そう、あれは地方公演のときだった。

ホテルの別々の部屋で休む。
鍵はマネージャーに渡し、外出など許されなかった。
ファンのひとたちでパニックになることがわかっていたから。
新幹線、飛行機、ホテル。
特別扱いされていたのは、ただ単に、ファンがあふれ失神者が続出し、まわりに迷惑がかかるから、それだけの理由だった。




深夜、チャルメラの音が聴こえた。
夜鳴きそば。
無性にラーメンが食べたくなった。
「おい、ヒデキ、ラーメン、食べにいかないか?」
彼の部屋に電話した。
2人でホテルの窓から出る。
とんでもない高さ。一歩間違えば転落死。
でもそんな恐怖は何でもなかった。
深い、何処までも深い孤独に陥る恐怖に比べれば、気にならなかった。
屋台のラーメン屋さん。

並んで腰掛けた。
「うまいな、ヒデキ」
「うまいね、ゴロー」
会話はそれだけだった。
そう、過去に戻ってもう一度体験してみたい時間は、あの屋台でのひとときだ。
2人で並んでラーメンをすすったあのとき、少なくとも僕は救われた。
ひとりでは、なかった。


~~~~~~~~~


新御三家(野口五郎、西城秀樹、郷ひろみ
)と呼ばれた僕たち。
3人でする笑い話がある。
ヒデキとひろみが売れてきたある日、ヒデキから
「ゴロウ、相談があるんだけど」
と呼ばれた。
「ひろみは、オレより数ヵ月後輩だから、最初は、ヒデキさん荷物持ちますって感じだったんだけど、しばらく経つと、おいヒデキって呼び捨てなんだよ、それがオレ、許せないんだ!」

3人で会うと、今でもこの話で大笑いする。
僕たちにしかわからない、熱狂があった。
僕たちにしか理解できない、孤独があった。








僕たちには、ただ、激動の時代を生き抜いてきた戦友としての熱い思いしかなかった。
あの時代を共有できたものにしかわからない孤独があった。
高ぶる気持ちやさみしさがあった。
2015年4月13日。
病気の苦難を乗り越え、戦っているヒデキの還暦のパーティに呼ばれた。
僕はバースデーケーキを運び、彼と抱き合った。
そのときの抱擁と、あのレコード大賞での抱擁は、なんら変わることがない。
ヒデキ、わかってるだろ?
何も変わらないよ、オレたちは、何も変わらない。
ただ一緒に走ってきた道だけが、そこにある。




~西城秀樹さんへ~
思い返せば、生まれて初めて君の名前に「さん」をつけました。
言った僕が驚いてます。
1年先輩の僕がっていうのも、もう、今となっては、何の意味もないことになりまして、今考えてみると、同じ世代を一緒に駆け抜けて来たなっていう、そんな気持ちです。
最近になって、ああ、秀樹っていい曲いっぱい歌ってたなあって思うし、かっこ良かったなあ、とも思うし……。
なんか、僕達って、世間でライバルって言われた時期があって、でもお互いにはみんな、そんなライバルだなんて思ってなくて、時代を駆け抜けてきたような気がします。
でも、今、考えてみると、意識してたんだろうね、どっかでね、お互いね。
でもここまで頑張ってきたんだから、どこまで行けるかどうか、2人で一緒に頑張って、この歌の世界、アーティストの世界を全うしましょうよ。
最後の最後まで……何が最後なのかわかんないけど、切磋琢磨しましょ。
僕が入院した時に、君が見舞いに来てくれたね。
あの時、ドアを開けた瞬間に僕に、君はハワイ帰りだったのかな、真っ黒に日焼けした肌にTシャツで、いかにも健康的な顔して僕に「ゴロー、元気?」
僕は元気じゃなかったから入院してたんだよ。
ま、いつまでも仲良くしましょ。以上、野口五郎でした。




~~~~~~~~~~

屋台のラーメンを二人ですすったという話し。本当に感動する。
ツライ


親友の野口五郎は今、誰よりも辛いだろう。



西城秀樹さんは「絶唱型」と呼ばれた歌唱スタイルと、ダイナミックなステージで、多くの女性たちをとりこにしてきた。


バラエティー番組でもお茶目な姿をみせたり、CMでも「秀樹感激!」などの名言を残した。

 72年に「恋する季節」で歌手デビューした時のキャッチフレーズは「ワイルドな17歳」。目鼻立ちが整った顔立ちと、ハスキーな声でシャウトする歌唱はまさに“ワイルドそのもの”。


翌年には「ちぎれた愛」が初のオリコン1位。トップアイドルの仲間入りを果たし、郷ひろみ(62)野口五郎(62)とともに「新御三家」と呼ばれた。


79年発売の代表曲「YOUNG MAN」は、人気音楽番組「ザ・ベストテン」で唯一、最高点の9999点をたたき出し、歌謡界の頂点に立った。

 俳優としても活躍した。TBS系ドラマ「寺内貫太郎一家」(74年)では、父親役の小林亜星(85)と毎回のように“お約束”の激しい親子げんかが話題を呼んだ。小林に投げ飛ばされた際に腕を骨折してしまったエピソードは有名だ。

 ハウス食品「バーモントカレー」のCMでは「ヒデキ、感激!」などのキャッチコピーがお茶の間の人気に。「ヒデキ」の愛称は芸能界の枠を超え、子供からお年寄りまで幅広い世代に愛された。

 15年前からは病気とも戦ってきた。歌手として脂の乗っていた48歳の時に最初の脳梗塞を発症。8年後の11年に再発した。それからは、右半身のまひと、会話をする際の言葉に障害が残った。09年の日刊スポーツのイタビューには「終止符を打つまでは人生を楽しみたい。自分だけでなく、周囲のみんなを楽しませたい。『一生懸命』という言葉はあまり好きじゃなかったけど、一生懸命に、今できることをやっていきたい。病気のおかげで多くのことに気付くことができたから。人に希望を与えていく歌い手になりたい」と話した。

 筋力強化トレーニングやリハビリに務めながら、60歳をすぎても歌への意欲は決して衰えなかった。15年に発売した還暦記念アルバム「心響-KODOU-」では、ライブで歌唱してきた「蜃気楼」を3120日ぶりの新曲として収録。デビュー45周年の節目となった昨年まで、精力的にコンサートのステージに立ち続けた。




 ヒット曲は「ヤングマン」「激しい恋」「傷だらけのローラ」「ギャランドゥ」など枚挙にいとまがない。紅白歌合戦にも18回出場した。記録と記憶を残した国民的スターが、短すぎる63年の人生に幕を下ろした。




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